背広の話V

NO.14
今日の「背広」の原型と言われる「フロック・コート」に続いて出現した燕尾服以前の「モーニング・コート」です。昼間の正装はフロック・コート、夜はイブニング・コートと夫々に付随する「小物」にいたるまで細かな決まり事があり、「英国ジェントルマン」は「マナーの基本」として「服装規定」の遵守を義務付けられ、当時の新帝国主義時代に突入する1870年代から「日の沈む所は無い」といわれた植民地に、本国のマナーと生活習慣を持ちこんで行ったのです。

このマナー遵守の精神は風刺や揶揄の格好の対象となるのですが、進出して行った熱帯地方や異文化圏でのサバイバルや成功をもたらす「鍵」となったとも言われています。(やせ我慢の哲学)
五木寛之著「大河の一滴」の中に紹介されている南極探検の話に、極限状況におかれた人間でも、毎日の生活習慣(毎朝、キチンとひげを剃り、髪をなでつけ、顔を合わせると挨拶をし、食事まえ「いただきます」と言う)や社会的マナーを身に付けた人が意外にしぶとく、極限状態のなかでも弱音を吐かなかった。マナーは体力より強いばかりではなく、愛より強い″とあります。

このようにして世界各地に「英国紳士」が良きにつけ悪しきにつけ一筋縄では行かないイメージを植え付けながら進出していきました。
わが国でも1853年にアメリカからペリーが来航し開港を迫られ、先ずは軍服として取り入れられたのです。

NO.15
ペリー提督が浦賀に来航し明治維新(1868年慶応三年)となり新政府が誕生、徳川300年鎖国泰平の世を打ち破られたわが国に国防の意味でも急速な西洋化(軍備)が迫られて軍服として「洋服」が時の政府によって正式に採用されるようになるのですが、それまでの「着物」とは作り(直線裁断)が全く違う(曲線によって裁断・縫製)ため、先ずは「足袋職人」が動員されて(殆ど曲線で裁断されており足の形にピッタリフィット)研究されました。しかしこの時点では封建制から近代資本主義社会への移行はあっても新しく政権の座についた薩長土肥の特権階級(公家諸侯)によって「勅諭」という形で明治五年に出された「服装改正令」、言わば上からの「押し付け」によって広がって行くということは西洋の「スーツ」の成り立ちからはだいぶ事情が違うと言ってもいいかと思います。
言ってみれば当時の「男」たちは着方をマスターするのに精一杯、作る方も足袋職人の器用さに依っていたため「スーツ」をTPOに応じて着こなすまではとても行かない事は想像に難くないのですが、それは今日の男性は引きずっているようにも思われますが如何でしょうか?(失礼)
今日の「背広」の登場までは、もう少し時間がかかるのです。写真はご存知初代の首相、伊藤博文さんの「フロック・コート」です。

NO.16
明治維新以降の政府主導の洋装化は、先ず上級官吏や富裕階級が着用したのですが英国流にならえば昼はフロック・コート(又は準ずるものとしてモーニング・コート)夜は燕尾服(テール・コート)なのですが、わが国では正式の通常服として燕尾服、略礼服としてフロック・コートを採用しておりその頃から着用する時間帯のきまりまでは取り入れなかったようです。TPOの概念まで採用する間も無く普及して行ったと言えるでしょう。

1860年代に入って先ず英国で、ウエストに切り替えの無い筒型の短い丈のジャケット、それまでは背中部分には5本の縫い目であったものが3本の縫い目で済む(背広)上着の登場となるのです。ダイニング・ルームではテールが付いた燕尾服、食後のラウンジ・ルームに移っての食後酒やタバコをたしなみながら談笑する際にゆったりと寛ぐための、ラウンジ専用の服としてラウンジ・スーツが登場して現在のビジネス・スーツの直接の原型となったのです。上下同一の素材を使用する手軽さは上下別素材(今日のディレクターズ・スーツの縞ズボン)で出来た服装より「格下」に思われるのですが、1846年アメリカでアイザック・M・シンガーによって発明されたミシンによって大量生産が除々に可能になるにしたがって先ずはアメリカの労働者階級の「晴れ着」として(日曜礼拝)普及し始めたのです。
写真は当時の英国の小説家C.ディケンズ(左フロック・コートスタイル)です。(1870年代)

NO.17
前回登場したラウンジ・スーツ(上下同一素材の寛ぐ服)も当初は「格」としては低い位置にありましたが二度の大戦を経て階級・職業を問わず、あらゆる用途に活躍するように男性服として昇格していきました。フランス革命(1789〜99)でも「衣服令」を制定性別を問わず何人といえどもいかなる市民男女に、特別の服装を強いることは出来ない。各人は自ら可と考える性の衣服を自由着用出来る。これに違反するものは公安を乱す者として訴追される。″このように、西欧で封建社会から近代社会への転換期に発生の原点があり、産業革命により新しい社会制度の出現が新しい「約束事」と「システム」を伴って、個人と社会あるいは国家との「決め事」として主体的に衣服を自由に選択出来る「自由権」の思想が、その後市場を中心とした経済システムの発展にも必要な条件ともなり新たな権力を持ち「文化」へと昇華していくのです。

しかし、このラウンジ・スーツが「昼間の正装」としての地位が確立されるのは20世紀に入ってからになるのですが、「夜の正装」としてわが国でもここ10年くらいの間にタキシードを着用するパーティーが増えてきておりますが、英国では決してタキシードとは言わず、ディナー・ジャケットと呼んでおります。アメリカの地名に由来するタキシード、何かにつけて保守的な英国人は一線を画しているようです。ご参考までにタキシードは夜の正装ではあっても決して「礼装」では無いのです。

いよいよ次号で最終号になりますが「まとめ」として今日まで「スーツの神話」と言われるほど奇跡的にも残ってきた「背広」への思いを込めてを書いてみたいと思います。

NO.18
「男は何故背広を着るのか」「何故背広は残ってきたか」について歴史をおって書いてきました。
イギリスでその原型が誕生し、イタリア文化(スノッブ)の影響をうけながらも当時のフランスの思想家によって「定義付け」がされて、アメリカに渡って急速に一般化し再び大陸に戻って「洗練」され今日まで基本的な形を変えずに脈々と受け継がれてきた「背広(男服)」。発生の当初(フロック・コート)からみても様々な変化を経ながらも、その変化のなかに「連続性」があり常に前世代の「形」へのオマージュ(敬意)が残されているのです。

燕尾服例をあげるとモーニング・コートの背中についているボタン(乗馬の際にシッポ(テイル)を上げて留める)燕尾服では使うことの無い「飾りボタン」が付いている(狩猟服からの名残)袖口のボタン(かつては捲り上げた)等々、一時わが国の首相も「半袖の背広(省エネルック)」を得意げにお召しになっておられましたが、「遊び着」としたならば面白いのでしょうが「男の正装」としては失格として普及しませんでした。
スーツが経てきた歴史への「敬意」と、その国の風土と文化を取り入れながら「変化」していく連続性にこそ、限りない「男」への信頼感を与える「服装」として今後も残っていくものと思います。

「背広」もさることながら「ネクタイ」の今日的な意味合いはわが国の蒸し暑い気候からいっても全くの装飾物(かつては首周りの保護の意味もあった)で、やせ我慢の美学″を象徴しているとも思えるのですが、「衿をただす」等「緊張感」と「安定感」の印象を与える大事な要素として今後とも背広とともに残って行くことと思います。

NO.1〜NO.18まで、お読みいただきまして心から感謝申し上げます。冒頭に参考文献として12年にも及んで集めた資料をもとに上梓された、中野香織氏著「スーツの神話」と記しましたが、氏の「スーツ」にたいする限りない愛情に満ちた本と出会い、40年にわたって「服作り」に携わってきた一職人として溜飲が下がる思いで読ませていただき本文の主旨を代えることなく、多少の私の考えを添えて書いたつもりです。あらためて中野香織さんには敬意を表したいと思います。

参考文書:文春新書 中野香織著「スーツの神話」平成12年12月発行 

追加:背広の語源についての私見
「背広」の語源でよく言われるのが、ロンドンでテーラーが集まっているセビルロー・ストリートがあります。次に引き合いに出されるのがシビル・クロース(市民服の意)があります。
しかし、私はそのいずれにの考えにも組しないのです。純然たる日本語発生説を唱えたいと思っています。英国で生まれた背広ですがラウンジ・コート又はサック・コート(袋状の意)それ以前のフロック・コートまでは背中のには5本の縫い目(ファイブ・シーム)がありました。
今日でもモーニング・コートはそうですが、体にピッタリフィットさせるためには必要があったのです。フランスではジュスト・コールと呼び(体に密着させる意)わが国に入ってきたのもフロック・コートでした。その後背中の縫い目が3本に省略されて、ゆったり寛ぐ服となったのですが、その言葉どおり背中が広く″作られるようになった訳です。当時の【職人言葉】として発生したものが今日も通用していると考えておりますが如何でしょうか?。

〜中野香織氏近著紹介〜
ダンディズムの系譜―男が憧れた男たち (新潮選書)
モードとエロスと資本 (集英社新書)



※無断転載は固くお断りします。





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