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〜田中 俊君(旧6組 担任 ニャンコ)とお茶をしました〜
2013年12月28日
   今日(28日)は、朝から荒れ模様の天気、突然吹雪いたと思ったら青空が覗いたりで安定しません。11:30にミスター・ドーナッツ ミュンヘン大橋店で会う約束をしてました。10分前に駐車場に着いた。ほぼ同時刻に、彼は自宅がある西岡からバスで澄川駅まで来て、駅からここまで歩いてきたとのこと。健脚いまだ健在というところでしょう。
 26日出来てきたばかりの車椅子をご披露しながら店内へ入る。私にとっては通い慣れた店、座席もご覧の通り、奥には「喫煙室」の直ぐそば。彼は遅めの朝食を済ませたばかりなので腹も空いていないと言うので、メニューもドーナッツ3個とコーヒーだけ。
 私の仕事を手伝ってくれている職人さんと家が近いので、時々電話で近況は互いに知ってはいたが、会うのは3年ぶりにはなるかもしれません。9月頃から機会をみて「何処かで昼食でも摂りながら…」、と言いながらなかなか時間がとれないでいました。昨日で仕事納めをした私に合わせてくれた田中君に感謝。
 今回は事前に彼に関して、定年後の生活について聞きただそうと準備(シナリオを描いて)していた。彼は市内の小学校2校で校長を歴任して、定年直後から現在まで「保護司」をやっているとのこと。私は、納得出来た。向いているとも思った。しかし彼は間もなく更新の時期がくるので”今回で辞めようと思っている”と言うので、この話で2時間余り会話は続いた。
 保護司の制度の発祥は江戸時代にさか戻って、現在東京の銀座だという。当時銀座は無宿者の溜まり場で犯罪も多く住民を悩ませたそうで、地域のボス格の人間が彼らを犯罪者から立ち直らせるために、保護司の制度を考えたそうです。いわばこの制度は日本が発祥地であり、現在はフィリッピンにも輸出されているという。※保護司の基礎知識

 会話の後半は、そもそも高校を卒業後、私は当時でも珍しい職業を自らの意思で選択して入ったいきさつを彼に話したが、彼は小学校生活は北見で過ごして、中学校入学時に北辰中学校に転校してその後北高に入学、その間母方の親戚に下宿していた。その母方の親族が事業家で、事業の一部でテーラーの経営をやっていたことがあり、そこに彼の従兄が在籍しており、私が独立して10年後くらいのとき取引先の問屋から誘われて共同展示会に参加するようになったが、その際北高卒業ということで田中君に私のことを知っているか訊いたそうです。そのとき彼は私が仕立て屋という職業を「選択したことが意外だったそうで(彼は、その親戚が経営しているテーラーの職人たちのことも良く知っていた),寛ちゃんが「仕立て屋の職工」になる、何故?と思ったそうです。

 私はその辺のいきさつについて説明をした。詳しくは記載しませが、彼は苦労があったろうね。と訊かれたが、私は修行時代からその後、独立するまでの課程でそれぞれ、適わないかもしれないがと思いつつも「夢」を描いていたから苦労をしたという記憶は無いと彼に言った。

 この度の会うことにはった直接のきっかけは、彼のパソコンのトラブルの相談でヘルプを依頼してきたことがある。良く訊くと7年程前に、大枚28万円も出費して買い求めたNECパソコンのトラブルでメーカーやらプロバイダーから電話サポートを受けていたそうで、どうしても拉致があかないことであったらしい。我々の世代はパソコンとは無縁の時代を過ごしてきた訳だから、諸氏たちが現職の頃にコンピュウターが導入され難しいプログラム言語での操作に悩まされてことは想像に難くない。(定年が先に見え始めた頃と推測している)パソコンに対してのアレルギーがあった人もいたのではないかとも思っている。

 Windows NTが1993年に発表され、その直後の1995年 Windows 95が発表されて、それ以前のオフィスコンピューターからパーソナルコンピューターが爆発的一般家庭にも出回るようになった。
 私は1999年にパソコンが一式揃って10万円を切る価格で売る出されたのを知って、早速買い込んで懸命に勉強した。しかし当時PCは良く「フリーズ」と言っていたが、パソコンが固まったようになって操作が不能になることが良く発生した。ハードディスク容量も僅か3Gb、メモリーも200〜300Mb程度であったから、画像など少しファイルサイズの大きいものを操作すると「フリーズ」して、ニッチモサッチモどうにもならず、結局「強制終了」というやってはいけないことをやらざるをえなかった。
 結局そのパソコンは3ヶ月で、改造に手を出すようになってパーツを買い求めては試行錯誤しながらいじくり回してはたのしむようになったのが、今日「パソコンお宅のジジイ(爺さん)」と呼ばれるよになった次第です。パソコンに慣れる秘訣は、「取り扱い説明書」を熟読すること(パソコンの用語を知ること)なのです。
 田中君とは最後はパソコン談義になってしまったが、近いうちに寛チャンのパソコンを見たいというので、一月〜2月は暇になるから、是非来て私の愛機をお見せしようと思ってますということで、彼は帰りも徒歩でと言うので吹雪き模様の天気をものともせずに、再会を約束して別れました。

※この度の件では先に紹介した日野石さんからは絵手紙、田中さんからは便せん3枚でお二人とも丁寧な文章の綺麗な文字の手紙を頂戴しておりました。この場を借りてお礼を申し上げます。
デジタルも良いけどアナログが、やはり我々の世代は嬉しい。